前回は、東京臨海副都心開発、その創造物語のさわりでした。話を端折りすぎたので少し補足させてください。
- マイタウン構想懇談会(昭和54年)
- 東京テレポート構想(昭和60年)
- 臨海副都心開発事業化計画(平成元年)
この3つは時系列的にはすこし離れていますが、連続した話です。
東京テレポート構想をよく読むとこれは、あくまでインテリジェントオフィスビル群と地球局、新ビジネス街の建設計画でした。当時、テレポート構想は世界中で流行っており、東京都としてもこの流れに遅れるまいと気合を入れて作ったものです。大規模な地球局は、電波障害が無い場所に建てるしかなく、それは東京湾の13号地でここに大規模なインテリジェントビルを建てることを鈴木都知事は発表します(S60年)。
この時点では、住宅建設の観点はありませんでしたが、ここでマイタウン構想懇談会が産みだした「東京を一点集中型とすることなく、多心化都市構造をつくり、職と住がバランスよく近接した都市を作る」という結論と結びつきます。
つまり、東京臨海部につくる新しいビジネス街が職の提供場所なら、その近くに住居を作り、更に遊べるところも作る。「住職遊接近の未来都市」の建設計画に結実していきます。これが臨海副都心開発事業化計画です(構想とか基本計画じゃない)。東京テレポート構想からわずか3年後にここまで計画は肥大化するのです。
なぜ東京テレポート構想から、臨海副都心開発までの短い期間でここまで進んだのでしょうか?
調べていくと、これは時代の流れというしかありません。ちょうど時は中曽根内閣。ドル円のレートが跳ね上がり、内需拡大と民活が叫ばれていました。内需拡大は、大規模な土地開発を呼び起こし、民活のスローガンは、臨海部開発を全部コントロールしたい東京都側と、民活の目玉にしたい国側の綱引きに結び付きました。当時国土庁が出した、過大なオフィス需要計画が綱引きに拍車をかけました。当然、東京都は意地でも自前で計画を作るべく、突貫工事で臨海副都心計画を作り上げます。
ここで出た結論はなんと「かかるすべての費用について公費を投入せずに、民間から回収する地代で作る」という都市計画となりました。当初の計画はレインボーブリッジの建設費もすべて入居するビル・住宅から回収することになってます。
臨海副都心の模型写真(このエントリの写真はクリックするとおきくなります)
液状化防止対策・インフラ整備・共同溝整備・地域熱供給・新交通システムなどの意欲的な都市開発計画は、たしかに魅力があり未来感がありましたが、同時に建設と維持が常に高コストであることを運命づけられます。今ならこのような計画にならないでしょうけど、時は1988年、バブル景気で国力が一気に膨れた日本にとっては不可能ではないように思える計画でした。
水と緑を感じる21世紀型の有明北地区の高層住宅、ちなみにこのイメージ図が公開された時、この場所はまだ貯木場で海のままでした。
↓1989年(!!)の有明北航空写真です。全部貯木場・・・ちなみに現在、オリンピック仮説競技場用地に決着した新しく造成した土地が埋め立てられたのは2000年ごろです。
この貯木場一体をすべて埋め立てて人口の入り江を作り、北側に高層住宅を並べる計画でした。理想のウォーターフロントを感じる生活、だったのでしょう。タワーマンションのてっぺんに三角屋根が付いているのが時代を感じます。
89年から90年にかけて、臨海副都心に入居を希望する企業が列をなして押し寄せます。株価は89年末に最高値を付けてその水準を上回ることはありませんでしたが、土地の値段のピークはもう少し後のことになりました。都心があまりにも上がり過ぎ、安い土地・安いオフィスが求められていたのです。もちろん、投機的な思惑もあったのでしょう。
次回は、臨海副都心計画をある意味ぶっ壊した戦犯・「世界都市博覧会」について取り上げます。
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