東京臨海副都心開発とは一体何だったのでしょうか。
何を実現しようとして
何が実現できて
何が夢と散ったのでしょうか。
いまや千戸単位のタワーマンションが立ち並ぶ東京湾岸。雑多な地域からの移住民で成り立つこの地域は、新しい神話を必要としています。そして神話の起源は、やはり臨海副都心開発の始まりから紐解かねば、と考えました。
不定期新連載【湾岸温故知新】は、その当時の資料やデータを踏まえつつ、臨海副都心とその周辺プロジェクトの変遷やあれこれを振り返ります。
wikipediaで「東京臨海副都心」の概要を読むと以下の説明文が載っています。
1979年(昭和54年)に、都知事に鈴木俊一が就任すると、臨海副都心開発の検討が始まった。1979年(昭和54年)のマイタウン構想懇談会、1982年(昭和57年)の「東京都長期計画」、1985年(昭和60年)の「東京テレポート構想」、1986年(昭和61年)の「第二次東京都長期計画」である。
臨海副都心の建設はバブル景気絶頂期の1989年から始まった。建設期間は27年である。3期に分かれている。臨海副都心はオフィス街として開発される予定であったため、東京都は企業誘致を積極的に行った。しかし、バブル崩壊で企業進出のキャンセルが相次ぎ、開発計画の見直しを迫られることになった。
これでは、何のために臨海副都心開発が始まったかよくわかりませんね。少し時代を遡ってみましょう。
革新都政だった美濃部都知事時代、東京の開発は停滞します。保守都政の鈴木都知事(昭和54年)に切り替わった時には、東京の人口はどんどんと減り続けていました。
人口が減っていく東京を変化させよう、住民同士のコミュニティが大事で東京都として住民主体のコミュニティ形成に支援していく(まぁそのための器、ハコモノに金を出すということですね)、という構想が「東京マイタウン構想」の原点となります。鈴木都知事肝いりの懇談会であったこのプロジェクトは、東京の都市構造を多元化、すなわち都心部から環状に副都心を形成するという話に結実し、「第二次東京都長期計画」となります。
環状に形成される副都心。7つの副都心のうち、まっさらな更地から計画できる副都心が「臨海副都心」であり、臨海副都心の中核施設が「東京テレポート構想」でした。
昭和60年、東京テレポート構想についての鈴木都知事の演説は高揚に満ちています。「東京の人口空洞化を是正する。そのための都市環境を整備する。海と空の次は情報の港が必要になる。多数の衛星中継器と光ファイバーを装備する地球局・情報加工と処理を行うテレコムセンター、そしてシステム開発拠点となるインテリジェントビル群を臨海部に建設する、建設地は東京港13号埋立地。とても広い用地が確保できて電波障害の心配もなく、業務集積地と近い場所にある。」
青海地区に配置する東京テレポートとともに、周辺に商業施設と超高層住宅を配置する、住職遊近接の未来都市建設宣言の号砲でした。
東京テレポート構想が着地し、臨海副都心プロジェクトが始まった当初の構想図【東京テレポートタウン】はこれです。
「21世紀初頭には6万人の人びとが住み、11万人の人びとが働きそして憩う」
この想像図を見る限り、超高層のインテリジェントビルは12本建設される予定だったのでしょうか。
・・・現状とだいぶ離れていて涙を誘いますね。続きは次回としましょう。
いいですねぇ
こんな感じの記事大好物